純心だった辻の女性達 酒屋のターリー達は人力車で辻ヘ【2007年6月号掲載】

   

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戦災と戦後の世相の変転、地形の変貌、また年代の経過で辻と西武門の関係、特に〝西武門ヌウェマヤ、ウ伴サビラ〟を真意まで解し得る世代が少なくなった。やがて文字通りに表面だけの解釈に終わる時代が来そうな気配への防備を備えておこうと思う、のが第2點。

第1點は、上述でご納得いただくことにして、第2點を以下に述べたい。昔の西武門は、波上宮→久米大通りの南北街路と若狭通り→上蔵通りの東西街路との交差點に当たり、また、通堂→西武門→泊高橋→坂下→観音堂下→首里、へと走るチンチン電車の主要停留所もあったところで、西武門停留所を発する首里行電車の最終は夜半11時半から45分頃までの頃だったから、辻で遊んでも帰宅しなければならない三ヵ二才、首里人たちはそれに間に合わすように、魏楼を離れねばならなかった。

なおまた、辻の女達の夜間行動の範囲は、東の方面には波上→西武門間の大通りの西側路までと制限されており、西武門の両角には監視の交番所があって、夜通し、2.3人の巡査が立ち番していた。そういう状況を年頭において「もっと長くいて貰いたい客が、時計を見い~〝もう帰らねば!〟と立ち上がる。〝もうお帰り!では、せめて西武門まではお送りしましょう〟などの対話」を想像すると〝イチュンテナ、カナシ…西武門ヌウェマヤ、ウトゥムサビラ〟の歌詞の美しさが解るのではなかろうか。そして、西武門は辻から、二中前とか真和志の上間、具志堅方面への順路としては不自然で、泊から安里、首里方面あたりへの順路としてが自然である。そう考えると〝西武門まで送られた〟彼氏の帰る先は大体見当づけられた筈だろう。さらに、合いの手の語句であるが、〝グンボ~ウチクルセー〟とか〝ガンチョー チャンナギレー〟とかドギツイのが出るのは、逆境に育ちながらも根は純情だった彼女達が、ひそかに現す純真を踏みにじる遊び野郎共への憤まん、クヮチクヮチーの爆発で、一時代の沖縄女性像と解すれば、それ相当の意味、が見出せる筈である」。

新崎盛敏さんは生粋のスインチュ(首里人)で、東京大学を卒業し同大の教授をされたインテリであった。しかし、この方と話をしていると何をしゃべっているのか私みたいな凡人にはムサットゥ解らなかった。私だけではない。あるとき佐久本政敦さん(瑞泉酒造の前の社長・故人)が知念朝功さん(故人)に君盛敏さんの話をしている意味が解るか、と聞いたらウウーサイ、ワンネーワカヤビランサイとの返事だったそうだ。それで佐久本さんも苦笑いしていたことを私はおぼえている。秀才は凡人には解りにくいところがあるものである。知念朝功さんといえば同じ東京大卒業で復帰前の立法院議員であり、屋良朝苗主席時代の副主席を勤めあげた人物である。こんな大物でさえ解らなかったのであるから押して知るべしである。この方もまた生粋のスインチユであった。スインチュにはスグリムンが実に多い。こんな亜熱帯地方のこの沖縄で誰がビールなど造れるものか、と世人に笑われながら立派なオリオンビールを造り上げて人々を驚かせた具志堅宗精さんもまたしかり。戦前は今の全泡盛製造業者よりも首里のほうが製造業者が多かったという。戦前の泡盛製造業者は金持ちが多く、前述の新崎さんの話に出てくる辻町通いには夜な夜な人力車を呼んで、それに乗っかって悠然と行き来したのもサキタリヤー達が多かったようだ。それが昔日のサカヤのターリー達だったのである。フトコ口は温かいし、肝ツ玉も太いしさぞかしチップもはずんだであろう。それに比べ現代の造り人たちはあまりにも目先の事だけに精いっぱいの感じがするが、どうだろう。もう少し心にゆとりが欲しいと思う、のだが。

【2007年7月号掲載に続く】

2007年6月号掲載

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