【人物寸評①】国場幸昌(こくば こうしょう)氏(昭和45年6月1日)

  • [公開・発行日] 1970/06/01
    [ 最終更新日 ] 2016/01/02
   

国和会といえば総合建設業の株式会社国場組を筆頭にベニヤ、セメント、通運、汽船、ボーリング、1970_6_1_1st_personal-brief-review_kokuba-kousyou娯楽施設からウイスキーや琉球泡盛等の酒の販売まで扱っている、所謂ゆる沖縄では第1位にランクされる11社のグループである。

その総帥国場幸太郎氏の片腕として終戦後の混乱期から直系、傍係併せて約1万人の従業員を擁する今日に至るまで総支配人として敏腕をふるい、沖縄の経済発展に大きく寄与してきた人が国場幸昌氏である。

氏は自ら仕事師をもって任じ、やり出したらなんでも徹底的にやり遂げなければ気が済まない性格の持主である。そういった氏の根性が兄、幸太郎御大を中心に事業を各分野で育てあげ、今日の国場組を始めグループを築き上げてきた、大きな原動力となったのである。

実業家として、手腕、技量を兼ね備えた彼はそのままの人生コースを歩めんで行けば、恵まれた将来はもう約束されたようなものだった。あとは自分のバラ色の人生をいかに豊かなものにしていくかプランすればよい、と吾々凡人は考えるものであるが、このバイタリティーに富んだ行動派の実業家は、一旦築き上げた自分のバラ色の人生コースをさらりとすて、茨の道と俗にいわれる政治の道に足を踏み入れたのである。

そして1965年の立法院選で当選、更に1968年と2期連続当選し、議会でも経済エ務委員長という重責も果たしてきたのである。

氏は強調する。“一旦議政壇上に上った以上、持ち前のファイトで仕事師のド根性をもって沖縄の政治、経済の発展のため懸命に努力してきた”と。

更に続けて、“おくれている北部三村の開発費に330万ドルの予算を獲得し、或いは弁務官資金による9ヶ所の公民館を建設するとこができ、更に北部三村に電力供給をするため電力公社移管に成功したことなどで選挙民に奉仕することが出来たことをいささか満足に思っている”と。

氏の生まれは国頭村字浜上原で四方山に囲まれた山原の中の又ヤンバルという形容がぴったりする位いの寒村で、父、幸直の6男として生まれかてて加えて、姉兄弟9名という中で育ち、それこそ赤貧洗うような少年時代を送って来たという。そういう境遇の中から少年幸昌氏の「負けじ塊」は培われて来たのである。

氏の父親の口ぐせは“人にうしろ指をさされることは絶的やるな”ということだったそうだが、実業家として、又政治家としても今日、第一人者に伸びてきた彼が、今秋行われる戦後沖縄では初めての衆議院選に立候補することが決った、

「1972年復帰、この重大な時機にあたり一身の平穏や安逸、また自分の事業のみに専念する考え方を棄て、自分の持味を生かし、百年の悔いを残さぬよう豊かな県づくりに一身を犠牲にする決意である」と氏が衆議院に打って出る決意を端的にいい表わした言葉である。

優良な大型企業の積極的な誘致構想等デッカイ夢と信念を抱いている。

「国会に送り出すとき人は真に勇気のある人、私利私欲にとらわれない人、しかも沖縄の苦悩を肌で感じ、経済界で実力をいかんなく発揮してきた人、即ち経済のわかる人を県民代表に送るべきだと考える。」

これは金秀鉄鋼KKの呉屋秀信の言葉であるが、若くてエネルギッシュな政治家国場幸昌氏は、あの幼少の頃培われた忍耐とド根性をいかんなく発揮する時期が正に到来したといえよう。

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