当間重剛という偉い人物がいた。那覇市長を経て、1956年11月11日~1959年11月10日まで琉球政府の第二代行政主席(沖縄県庁調べ)を務めた人間である。大方の沖縄人が輸入ウイスキーを飲んでいた時代にあって、独り泡盛だけを飲んでいた人物だったからこんな偉い頑固者はそう沖縄には居ない。
「絶えず言っておることなんだが、沖縄の泡盛はその品質において又独特な風味は世界中でも、沖縄以外には無い酒であり、これを長年貯蔵すれば他の名酒も遠く及ばない高級酒になる。その長年貯蔵は資金も食うし、それが出来るのは玉那覇君以外にはいないと思う。高級酒にして今後は本土へどんどん出して、沖縄経済発展に尽くして貰いたい」
これは1970年6月30日に完工した瑞穂酒造の2万石工場落成式への当間重剛さんの祝辞(小紙第8号掲載)である。今から31年も前のことである。
「…また、天下の酒豪とされた故当間重剛が、ナポレオンやスコッチの特級酒には見向きもしないで泡盛しか飲まなかった。洋酒の上者があれば親しい酒友に『持って行け』といって手許にはおかなかった」(小紙第42・43合併号で故池宮城秀意氏玉稿)と述べている。
また、小紙第57・58合併号=昭和55年11月15日付では、池宮城秀意さんは「〝酒仙″の当間重剛」の見出しで、
「…泡盛をたのしみ、吾、人とともに、泡盛に陶然となった人が当間重剛大人(たいじん)であった。酒百態と言ったが、当間大人は世に言う『酒仙』であった。酒を飲めば仙人の如く、融通無碍(ゆうずうむげ)、自由自在、人に己を押しつけず、他人に己を強要しない。ほんとの良き自由人であった。
…泡盛製造業者にとって重剛は大の恩人であるといってよかろう。それは泡盛の愛好者の域をはなれて、泡盛業全般の恩人であったと言える。具体的に拾いあげると、泡盛の古酒(オールド)としての販売実績をあげる上で沖縄の泡盛販売業界は当間重剛の恩恵を蒙(こうむ)っている。
事例をあげて言えば瑞穂(みずほ)の玉那覇有義社長に古酒を売り出せと勧奨し、銀行方面への金融の道を開いたきっかけをつくってくれたのは行政主席をしていた重剛氏だったということである。
自分が泡盛が好きだからということだけでなしに、泡盛を沖縄の1大産業にしなければならぬ。そして、それが十分可能だとの確信があって、当間個人としても大いに力を入れることになったわけである。
主席その他の公職にある頃も、当間は東京その他への出張の折に、小さいもの、大きい壷その他に泡盛の古酒を詰めさせ、部下たちに携行させ、関係者、旧友、知人たちへの土産として届けさせたものである。
酒と言えば泡盛、行政主席その他の役職にあった頃、酒好きの名が聞こえていたために、方々からウイスキーその他有名な世界の酒が当間家には集まったものである。
ところが当間大人の泡盛一遍党は終世変わらなかった。当間家の戸棚の高級ウイスキーは重剛大人を慕い寄る若い人たちに『君持っていくか』と惜しみなく持ち帰らせたのである」
と述べている。
更に小紙第59・60合併号(1981年1月23日付)の池宮城さんは玉稿で次のように重剛大人について述べている。
「酒飲みの『いぢきたなさ』は流石の当間さんにも見られたものである。ある正月の元旦に高等弁務官の招宴の帰り、私たち親しい者数名が当間さんの浦添の私宅に立ち寄って盃を重ねることになった。
ウイスキー、日本酒、泡盛が出された。私は泡盛の古酒を汲んでいた。古酒を何杯目か重ねていると『おい、君、その古酒はそれまでだぞ』と当間大人がのたまったので、私も主の気持ちを察して『はい、入っているだけでお終いにいたします』と答えたものである。
古酒を大切にする当間大人の気心がしみじみと私にもわかったものである」
【2001年4月号に続く】
2001年3月号掲載