我が愛すべきA先輩の酒の上での失敗談である。小さいながら建築請負業を営んでいた先輩は酒を飲む機会が多かった。次のことは直接ご本人から聞いた実話である。
今でこそ跡形もなく想像もできないであろうが、真喜比から安里に下ると高架橋を渡りひめゆり通りに入ると、10メートルぐらい行った所に信号機があって、そこを右に入ると道の両側に相当数の飲み屋があった。殆どがママさん1人か、ホステス2,3人かの小さなお店が多かった。私も昔はこの界隈を飲み歩いたものであるが、何故かこの通りを「柳通り」と稱(しょう)した。
はてな?
柳の木があったのかどうか、今となっては私にも記憶がない。
さて、A先輩の会社はその日は月給日であったのであろう。支払いが済んで、気持ちよく従業員達と飲み屋へ繰り出した。で、何次会だかおぼえていないが入った所がここ柳通りの、とあるママさんの店であった。人間は仕事でひと区切りつけた時の爽快な気分は彼我を問うまい。飲んでしゃべって、歌って…したたかに酔い、とうとうカウンターにそのまま寝込んでしまったのである。
何時間たったであろうか。ふと目覚めてみると周囲には誰も居ない。小さな豆電球が淡くあたりを照らし静寂そのものである。そこでA先輩は慌てた。咄嗟に出口のドアの取っ手を捻り回すと開くのである。しかし、どっこい外から頑丈な鍵がかかっているのである。
「万事休す」
一瞬動揺したが、そこは流石建築請負師である。諦めが早い。ジタバタしたって今更どうにもならない。「落ち着け!」と自分に言い聞かせながら酔い覚めにと冷蔵庫から勝手にオリオンビールを1本出して、真夜中の独酌と相成った。
斯業界は心身共に激務の世界である。再び睡魔におそわれそのままゴロン。A先輩が我が家に辿り着いたのは結局翌日の日暮れ時であった。家族はもはやこれまでと、那覇署へ捜索願いを出す寸前であった。その晩、A先輩が妻子からマギーヤーチュウ(おしおき)されたことは想像に難くない。
サキジョウグー(酒飲み)ではなかった。家での晩酌もしなかったが、一旦友と外に出ると飲み明かすタイプであった。いうところの「雰囲気酒」であった。酔うと頭を左右に振りながらやたらと握手を求めて話し続けた。正に「酒徒善人」であった。
そんな健康な彼が一時痛風とかで脚の麻痺を訴え禁酒していた時期があった。しばらく経って「飲めるようになったよ」と喜んでいた。その訳を聞いたら、「妻が毎朝1番にゴーヤーの生ジュースをコップ1杯飲ませてくれているおかげだ」と嬉しそうに語っていた。
「今のゴーヤー農薬だらけという人もいるが」と問いかけると彼はこう言った。「妻は流しで塩水を作ってそれにゴーヤーを十分につけておいてからジューサーにかけているんだよ」と頼もしそうに微笑んでいた。「この夫にしてこの賢妻か」とその時私はすごく感動したことをおぼえている。
酔えば時としてカラオケで歌っていたが、それがまた上手だった。背丈が私と全く同じぐらいで、一緒に飲んだ翌朝「夕べ靴を間違えてきているが、君の靴を履いてきたのではないかな」と電話がかかってきたのも1度や2度ではなかった…。
諸行無常というか、そんな我が愛すべきA先輩が2年前に急逝した。黄泉の国にも飲み屋は何軒かあるのであろうか。
(合掌)
2000年11月号掲載