水筒入り泡盛で泥酔~泡盛1杯で永山大佐殿と分れ~

   

私が初めて泡盛を飲んだのが14歳だった、と前号で書いた。タバコを吸い始めたのもその頃であった。

awamori_yomoyama_story_2000_09_drunk_story当時、アメリカ兵の一線部隊が引き揚げた跡のゴミ捨て場には、いろんな缶詰やら石けん類が埋まっていた。われら悪童仲間は鍬(くわ)で其處(そこ)を掘り起こし食べ物を探し歩くのであった。

掘り当てた缶詰には粉末のジュースの素やビスケットと一緒に3本入りのタバコが入っているのもあった。いたずら盛りの少年たちは大人の真似して皆吸い出したのがそもそもの始まりである。

高校2年生の頃からは、夜、寄宿舎を抜け出して行き、近くの山城のヲジーヲバーの家がわれらSグヮー(当時タバコのことをそう称した)仲間の吸い場所であった。誰かがラッキーストライク1本を隠し持って来ると、皆で回し吸いをしたものである。

長くて楽しかった夏休みが終わり、寄宿舎生たちが各々の町や村から帰舎した夕方のことであった。同じ本部町出身の同級生だったU君がにこにこ顔して私に近づいて囁いた。

「山城の家にいい物を持って来て置いてあるから行こう」と、いうのである。

ハテナ?

上原君の字(あざ)は当時稲作で有名な所だったので私はてっきり銀めしのお土産かと勘繰った。だが、なんと物はアメリカ水筒いっぱいの自家製の唐芋泡盛であった。2人して飲んだ、というより私が一方的にグイグイやったのであろう。とうとう酔っ払ってしまい、山城のヲジーヲバーの家で寝てしまった。目が覚めたのは夜の8時をとっくに過ぎた頃であった。

うぬ上原君め!彼は熟睡中の私をそのままにして置いて1人寮に帰っていたのである、次の瞬間顔面蒼白となり恐怖心が全身に満ちてきた。点呼の時間は既に過ぎていたのであった。意を決してふらつく足でわが室に帰って行った。

案の定、上級生どのが待ち構えていた。その中のMという4年生の前に立たされ、真正面から鉄拳で有無を言わさず何度もぶん殴られた。前上歯2本が折れ、鼻血も流れた。自業自得だから弁解の余地はなく、自分自身を責めるしかなかった。

その当時の上級生には3中(旧制沖縄県立第3中学校)の在学中に学徒動員で出陣して生き残り、敗戦後に復学してきた者も多かった。これら上級生の中には旧軍式の敬礼や秩序にやかましい者共も居て威張りちらかしていた。

おそらくこのMもそんな中の1人であったのであろう。中には私のSグヮー仲間もいたし、酒友?もまたいた。グースカ寝ている私を起こさずに、そ~っとしておいたわが同級生の上原君はあの時、友の情けとしてひとり寮へ帰って行ったと思う。その時無理に起こして酔っ払ったまま連れ帰ったいたら、私はもっとひどい目に遭っていたであろう。

それを思う時、上原君には深く感謝しなければならない。今振り返ってみても私は起きた時には酔いはすっかり醒めていたし、点呼に遅れただけの理由によるものであった。

この事は決して自己弁護ではない。半世紀以上も経っている遠~い昔々の、またその昔の、わが少年期の経験は今でも鮮明に脳裡(のうり)に焼き付いている。

戦争中までの中学校は5年制で、敗戦後しばらくの間は4年制であった。私たちが最後の過ごした。4年次の時に下級生いじめで2学期間中停学を食らった。詳細は割愛するが、その時の英語とクラス担任が永山政三朗先生であった。なんでも敗戦時のポツダム大佐とかで、きびしさの反面やさしい人柄であった。

ようやくのことで卒業できたのであるが、卒業式が済んでクラスに戻り、1人ひとり先生の前に進み出てカラカラーから猪口で1杯の泡盛を受け飲んで、別れを惜しんだ。

それにしてもあの時代に、どこからあのカラカラーと猪口をこの大佐は探して来たものなのか、今もって不思議でならない。

焦士と化したわが沖縄でよくもたくましく生き抜いてきたこの酒器に、私はかぎりないいとおしさを抱く。

2000年9月号掲載

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