琉球泡盛の変遷の一端を記しておきたい。
敗戦直後は多くの家庭で自家製の酒を醸していた。本部町字具志堅の新島のわが家でも造っていた。アメリカ軍のドラム缶を半分に打っ手切ったのがいわゆる〝蒸留機″だった。
原料は唐芋やソテツだったりで、母が庭先にちょっと大き目の石ころを3個据えその上にドラム缶を乗っけるだけの簡単なものだった。あとはこれもまたアメリカー(※1)の廃品真鍮で蛇管を作って取り付けるだけであった。
冷やし用には大鍋を使っていた。正月や旧盆などに造るのであったが、当時数えで14歳だった私は母の側に座ってチョロチョロと滴り落ちてくる液体をじーっと見つめたものである。
さて、それからが問題である。正月ともなると悪童たちは各家庭で造った酒を小びんに詰めて持ち寄り、味比べをしながら飲んだ。ソテツで造った酒を飲んで体中ブツブツができた悪童もいた。当時の親たちもおおらかだったのである。
これが私の酒の飲み初めであった。14歳にして酔っ払ったのであるから今考えてみると我ながら寒心の至りである。遠~い昔々のなつかしい思い出深い話ではあります。当時の沖縄では各地でこのように造っていたと聞く。
1946年4月、時の米国民政府はこのような〝密造酒″を止めさせる為、時の沖縄民政府に「酒類を製造して民間に配給しなさい」と指令を出した。南部、中部、北部に4場(廠)、1工業試験場のいわゆる官営工場が出来たのはこの年である。この官営工場は3年間続いている(1995年発行醸界飲料新聞118号に記載)。
昭和24年1月1日付で民営に移っている。首里や那覇に集中していたのが各市町村でも出来るようになり、その時に認可されたのが150軒ぐらい(佐久本政敦瑞泉酒造会長の話)だった。
認可の条件が面白い。年間の製造石数が8石、それを下回ると免許取り消しとなった。ハイそういう条件で造ります、と答えて許可されたという。
慶佐次興栄さん(本名護酒造所代表者)の話によると、当時の酒造りには米軍払い下げのジャムのスポイル品や唐芋、黒糖でも造ったという。原料の黒糖買い付けでは奄美大島、喜界島、徳之島まで出かけたそうだ。唐芋は羽地の田井等から買ったという。
30分位いで450斤の芋を処理し、バーキグワァー(ざる)に入れてモロミを作り1週間で蒸留できたということだ。その後はキューバ産の黄色いザラメに変ってきている。小紙が創刊されてしばらくの間この原料を使用していたのを憶えている。それからタイの砕米へと移行するのであるが、それも当初は4ツ割りであった。
その当時は皆計り売りで、米軍の野戦用の水缶(1斗入り)に詰めてそれを担いで各雑貨店を廻り売ったのである。戦前はマチヤグワァー(雑貨店)には皆大きな酒壺が据えられていて、バサムチャー(馬車にトタンで丸く作られた缶で2斗入りの泡盛を何本も乗せ、首里の造り酒屋から買った酒を南部、中北部まで運び各マチヤグワァーに売る行商人=今の酒類卸売業者)が店の壺に1升桝で計り売りをしていたという事だ。
敗戦後もそんな商法が続いていたのであるが、ここで〝革命″が起きたのである。1953年、識名酒造の先代がヤマトゥから入ってくるソースの空きびん(2合入り)を利用してこれに酒を詰めて売り出したそうだ。つまり、いうところのリサイクルだった訳だ。
これは便利だ、と酒は飛ぶように売れたという。これが泡盛メーカーのびん詰め販売の始まりである。アイデアマンが居たものですなあ。
当時のメーカーの苦労や悩みは尽きなかった。タイの原料米の等級がC1だった頃、細か過ぎて砂みたいで洗うと粉みたいなのが入っていて流れてしまい、歩留りがすごく悪くなったり、大阪の斡旋業者に原料米の買い付け資金1千万B円(※2)をあわや詐取されそうになったことなど、数多くのエピソードがある。
去る大東亜戦争の初期頃までは300年のクース(古酒)もあった、と識者は語っている。こんな我が沖縄の〝宝物″も皆戦争が奪い去ってしまった。にっくき戦争さえなかったら私達は今日300年クースとはいかないまでもせめて200年もの位いは味見できたのではなかろうか。
敗戦後も琉球泡盛は幾多の困難とハンディを背負ってきた。去る大戦では泡盛もまた1大被害者である。
(2000年8月号につづく)
※1 沖縄でのアメリカ人の総称。 ※2 B円(ビーえん)とは、1945年から1958年9月まで、米軍占領下であった沖縄県で使用されたアメリカ軍が発行した通貨。
2000年7月号掲載