首里の方で初代東京泡盛同好会会長だった新崎盛敏さんというインテリが居た。新宿の泡盛居酒屋あたりでも一タ酌み交わしたこともあったが、長年東京に在りな がら幼年の頃のウチナーが実にはっきりと憶えていた。この人が面白い話を書いてくれた。「西武門節考」というタイトルで小紙に玉稿をお寄せ下さった。
今から26年前のその玉稿の辻遊郭があった所でヤマトゥ商人や外国人、ターリーたちが通い夜な夜な泡盛を飲みながら商談や交際をした所であった。勿論ジュリグヮーに酌をさせながらである。今でいう一大社交場である。西武門節はいうなればその遊女と酔人の淡い恋歌である、といえよう。
「沖縄ナツメ口の代表歌ともいえる西武門節の歌調は、昭和5年頃から10年頃までの間に、辻の町で歌われていたものが主になっている。曲は原作者不明だが、山原節小の名で歌われていたのを初めて私が聞いたのは、昭和4年も夏の頃だった。同じ曲で、『イチュンテナ・カナシ(もう帰るとおっしゃるの!) ウマチミショレ・サトゥメ(お待ち召され里前)西武門ヌウェマヤゥ伴サビラ(西武門まではお送り致しましょう』が辻で歌われるのを初めて聞いたのは昭和5年末だったか翌6年春の頃だった。
そして以後、新作あるいは旧来の歌詞が当意即妙に、詠み人知らず式に、付け加えられて行って、今日「西武門節」といわれるものになった、といって良かろう。なお当初は「ガンチョウ〃、ウヌガンチョウ、チャンナギレー」「グンポウ〃(ごぼう・浮気者)、ウヌグンボウ、ウチクルセー(打ち殺せ)」というようなどぎつい言葉や「スミナチクィリィヨヤー、ワンウムヤー(染めなして呉れやれ、我を恋う人よ)」「ヂン卜ウ〃、ウムイカタラー」のような優しい言葉の合いの手は入らなかったが それらが現れ始めたのは昭和10年以後だったように恩われる。
私のような者がどうして、そのように自信をもって語れるのか?と不思議がる方もあるかも知れないが、実は私の中学時代の友人には当時すでに酒造家の主人となっていたのが2、3名あり各自がそれぞれ辻内にミー小(ぐゎー))を持っていて、私が帰省する毎にそこここで歓送迎の宴を張ってもらった体験を持っているからである。なおまた、同じ町内の先輩には、西武門節と同年代に社内で歌われていた「フィヂ小スティアトヤ…チャー首里カイ〃テー」の歌の主人公とされる故友三郎兄もおり、三ヵ二才(さんがにーせー)の間の噂話も耳にすることが多かった。そういう訳で50年ばかり前の体験が主材料で、作りごとではないが見聞不足の面はあるかも知れない。ところで、放っといても良い50年前のことに何故そうこだわるのか?と思われるむきもあろうかとも思うが、西武門節の由来を訳す理由は次の2点にまとめられよう。
昭和一ケタ年代の内地では、影を慕いて・侍ニッポン・赤城の子守唄等々今でもよく歌われるナツメ口歌謡曲が出たが、沖縄で西武門節が出たのも大体同時代であった。遣うところは、内地の歌謡曲では作詞・作曲が誰々と特定個人名で明確にできるが、西武門節では特定個人名に限定できぬということであろう。
不特定多数の人々が作って行ったのは民謡で、西武門節などは正にそれにあてはまるものと私は思っている。歌謡曲と民謡との相違などとそれだけなら、何ら問題にせずすまされようが、著作権云々が大きく問題視される今日の状況では、その由来を明確にしておいた方が将来に問題を残さぬだろう!と思うのが第一 点。
【2007年6月号掲載に続く】
2007年5月号掲載