奄美の黒糖焼酎は元気~業者が約1千トンを移入~

   

【2007年2月号の続き】

前号で宮里武秀さん(故人)の言葉に唖然としたと書いたが、それは泡盛酒が持つ全く未知の世界であり、awamori_yomoyama_97_amami-oshima_brown-sugar-shochu_storyせめてそれを汲んで1升びんに一杯詰めて県の工業試験場で分析をさせたかったからであった。その中にはどういう成分が含まれていて、熟成にどう影響を与えているのか、私はそれを知りたかった。今となっては所詮致し方ない話であるが。

さて、話は飛ぶが、今から24年前の1983年に小紙は沖縄県酒造青年部と奄美大島の黒糖焼酎業界を視察した。奄美大島は大正時代に首里の泡盛製造業者の二男三男が泡盛造りに出掛け、其慮(そこ)に定住した所である。そしてその末裔達が今も酒造りを家業としている所もある。

奄美群島は5つの島から成り、人口123,142人となっている(鹿児島県庁調べ2007年7月1日現在)。24年前は1市10町3村で人口は約15万人だった。本島は1市10町3村で名瀬の港で有名な都市地区である。名瀬と書いて「なぜ」と読む。

人口12万の群島に、現在黒糖焼酎製造工場が27場あり、日夜生産に励んでいる(奄美酒造協同組合調べ)。前号に「敗戦後泡盛の原料は黒砂糖も使用していた」と書いた。奄美大島では敗戦後黒砂糖を原料にして「黒糖焼酎」を造り、現在では日本全国で人気を博している。

この原料の黒砂糖、実は我が沖縄県から移入しているのである。移入高は年間1千トンにのぼっている(奄美酒造組合調べ)。この数字は沖縄県黒砂糖工業会の約12.5%(同会調べ)に当たる。

甘味の黒糖焼酎の月販売数は約1万8千260mlであるといわれ、その50%が島内で消費され、50%は島外ヘ出荷されているようだ。しかし、その生産量も移出数量もここ数年上昇しつつあると同組合では語っている。

24年前に記者が訪れた時は、飲み屋に入ってシマの酒を要望するとホステスたちに「ビールどうですか」と言われたものである。それほどまでにシマの酒、黒糖焼酎は卑下されていた時代だった。

これは沖縄でも過去には全く同じ時代があった。寂しい思いをさせられたが、そう言われるとこちらは意地からでも島の酒を要求して飲んだ思い出がある。奄美大島は、その昔琉球王朝時代はその領下にあり、庶民は共に苦しめられた同一民族である。

奄美民謡のあの哀調切々たる調べは聞く者をして心をゆさぶる。特にあの裏声は独特だ。王府時代にはひもじさのあまり砂糖きびを失敬したために首を切られたという実話も24年前の取材で島の古老から聞いた。

奄美大島といえば、かの西郷どん(隆盛)が島流しされた所としても有名だ。その時彼に差し上げたご飯で、“鶏飯”というのがある。現在もずーっとあるそうだが、鶏肉を千切って入れたご飯で、とても美味しいジューシーである。

ともあれ奄美の黒糖焼酎が元気で販売数量も年々伸びつつあるということは、共々に嬉しい限りだ。特に我が沖縄県のさとうきびで醸される黒糖焼酎は香ばしく甘い味がするのが特徴であり親しみ易い酒だ。与論島にも1場がある。確か銘柄は“有泉”だと憶えている。其慮(そこ)の社長が取って置きの年代もののクースの味は忘れられない。

過去に我々のグループは有村産業のデッカイ船で其慮を観光したことがある。沖縄の各離島そのものであるが、ただ違うのは言葉だけである。そういえば我がオリオンビールも奄美群島へ出荷されている。

確か平成8年(1996年)5月の初出荷だった。今年で出荷11年になるが年々数量が増えてきているというから、これまた嬉しいニュースだ。特に業務用が伸びている、と同社の宣伝課では語っている。何せ我がオリオンビールは鮮度が高いからな。

こちらで駄酒落(だじゃれ)をひとつ。奄美大島では名瀬と書いて“なぜ”という。“なぜ”でしょうか。それは福岡県では河豚(ふぐ)のことを“ふく”と呼んでいるが如し。「福」を招くという語呂か。

奄美の黒糖焼酎は那覇の居酒屋でも豊富に取り揃え、客の人気も上々だ。

2007年3月号掲載

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