沖縄がのどかで、人々がのびのびと生活を営んでいた時代、勿論軍靴の音も聞こえない戦前の古き良き時代の話・・・。
瑞穂酒造の先々代社長、玉那覇有義さん(故人)から生前聞いた話によると、その頃のバサムチヤー(馬車引き)が現在の泡盛の卸売り業者の役目を果していたそうだ。荷台にウマダル(馬樽=トタンで作った円い縦長の容器で1斗~2斗入り)に首里の泡盛業者から卸で仕入れて遠く北部まで各マチャグワー(雑貨店)を廻り泡盛を売っていたという。
各雑貨店には1斗~2斗入り位いの素焼きの壷が据えられていて、バサムチャーはそれに1升枡で計り入れるのであるが、そこからが振るっている。このバサムチャーなかなかのジンブンムチ(知恵者)で、枡の角に親指をつつ込んだまま馬樽から店の壷に入れていくのであるが、その時枡の真ン中に注いでいく。
そうすると、枡の中の酒は盛り上って満ぱい状態となる。これをくり返すのである。店のおかみも立ち会っているが、それには気付かない。結果的に1斗ではなく9升余となる計算だ。荷台にはまだまだ多くの樽が積まれている。
次々雑貨店でこの方法をやらかしていくのであるから相当な数量となる訳だ。バサムチャーが知恵者なら雑貨店のおやじも然る者で、壷に少々“水増し”をするのである。傍迷惑なのは消費者である。が、泡盛愛飲者の味覚はだまされない。
小学校の低学年の子供はうす暗くなる頃によく酒買いに行かされたものであるが、行かせる時に“訓示”があった。「イェー(おい)あのマチャグヮーの酒は水ッぽい。別の店行きなさい」。
或るわんぱくなどは自分のおやじに度々酒買いに行かされるものだから、一計を案じた。今宵はまだかまだかと待っていたら、案の定ほらきた。1升びんのゼニを握りしめてマチャグヮーへ走った。「酒9合下さい!」、であとの1合分はアメ玉に化けたという。
この話は、つい最近この後輩から直接関いた笑い話である。それからすると、あの時代はどっちもどっちジンブン(知恵)比べだった訳だ。冒頭に紹介した玉那覇有義さんによれば、その時代のバサムチャーは金持ちで、泡盛製造業者の中には酒税が払えず、このバサムチャーから借金するのも居たという。
現代ではちと考えられないことだが実話である。北部の或る泡盛製造業者から間いた話も面白い。
那覇からポンポン船に泡盛を積んで、やんばるへ急ぐ。片や馬車に積んで陸路これまたや
んばるへと急ぐ。つまりどちらが早く北部へ着いて各地域の雑貨店に酒を卸すかという先陣争いを演じたという。
以上の泡盛よもやま話は現在でいう「西線」と呼ばれている東支那海に面した地域での事
である。いっぽう与那原から遠く今でいう東村や国頭村までの地域は太平洋側に面した「東線」である。
その昔は与那原を起点にマーラン船や小船に日用生活物資を積んで沿岸地域と交易し、遠く東村や国頭村あたりまでも往来していたそうだ。そして帰りは薪や木炭などを仕入れ与那原界わいで売り捌いていたといわれている。
興味深いのは、昔は与那原にあったという現在の比嘉酒造の「泡盛まさひろ」もこの大小の船にゆられて東村や国頭村で取り引きされ愛飲されていたという事実である。私は今から20年以上も前に「泡盛まさひろ」の取材で国頭村の安波という部落を訪ねたことがある。
安波川を挟んで両側に点在する家並みは、なんとも平家の落武者集落みたいな佇(たたず)まいだというのが最初に訪れた時の印象であった。なんとも痛快なことに、何百年もの昔から今に至るも相変わらず泡盛は「まさひろ」だということだ。
次号はこの続編を書いてみたい。
【2005年10月号に続く】
2005年9月号掲載