沖縄総合事務局の向い側に泡盛居酒屋があった頃の話であるからずい分古い話ではある。
この店には総合事務局のヤマトゥンチュー職員が仕事帰りによく飲みに来ていた。カウンターで飲みながら彼達と雑談していると、こういう話をするのである。
「沖縄の職員に一緒に泡盛を飲みに行こうと誘うと、いや私は前島のバーへ行ってウイスキーを飲むんだという。私よりも月給は安いんですがね」。
関西泡盛同好会が発足したのも遠い日のことである。大正区の沖縄会館2階で華々しく開会したのであるが、その会場で三田学園の教授が言った話は今でも鮮明におぼえている。
「沖縄の人はお正月とか何かのお祝い座で一緒になる時に私が泡盛を要望すると、これは皆さんが飲む酒ではありませんと言って清酒やウイスキーを出すんですよ。沖縄の人が沖縄の地酒を卑下してどうなるんですかね」。
復帰して多くのヤマトゥンチュー達が公務や出先へと沖縄にやってきた。前号(2003年10月号)でも触れたがこういった人々が泡盛に馴染んでいったケースは多い。勿論中には鼻から臭い、と敬遠する人々もまた居たのも事実である。
そのいい例のひとつがここに紹介する安元さんの場合である。安元さんは三越本店から沖縄三越の専務として赴任して来ていた人だが、送別会の宴席で部下たちが口々に言ったのが「沖縄へ行ったらユメユメ泡盛だけは飲むな」であった。
着任早々沖縄の部下たちが開いた歓迎会の席上安元さんは頑なとして目の前に出された泡盛を飲まぬ存ぜぬで通した。宴もたけなわになった頃、1人の部下がフラフラしながらカラカラー片手に近づいて来た。
と、この部下いきなり安元さんの首根ッこをつかまえてコップいっぱいの泡盛を飲ませたのである。部下の〝強引な人情″に心打たれた安元さん、えいッままよとばかりにグイグイ飲んでしまった。
しかし、どうだろう。東京の連中が言った忠告とは全く違うではないか。翌朝である。他の酒と異り実に目覚めがさわやかであった。以来毎晩のように接客には必ず泡盛を欠かすことはなかった、と後日私に告白していた。この人の泡盛とのかかわりやエピソードは多いが他日に紹介したい。
さて、戦前の琉球泡盛の総移出数量の約3分の1以上は県外出荷であった。その主な市場はやはり東京や大阪であった、と歴史は述べている。泡盛業者の中には口を開けば戦前は、が口ぐせであるが、ここで見逃してはならないのが強力な流通の存在である。
これは単に沖縄人だけで開拓し得た数量では決してない、と私は考えている。あれだけの大消費市場であり、その土地感や人の流れ、横の連携や人とのつながり等々を考えるととてもウチナンチューアチネーでは遠く及ばなかったであろう。
去る大戦中までの酒といえば清酒、ビール、焼酎そして若干のウイスキーの類いといったところで、酒類の種類はそう多くはなかったであろうが、それにしても全移出数量の約3分の1という数字は大きい。
今、我が琉球泡盛にとっては誠に喜ばしい追い風が吹いている。琉球泡盛は単なるサケではない。遠くて深い歴史を背負って来た我が琉球泡盛のその奥の深さをしっかりと勉強しつつ理解を深めつつあるのが神奈川の掛田勝郎さんである。私はこういう流通をしっかりと育てて欲しいと思う。
沖縄が何であったのか、その歴史と文化に深く共鳴しつつ琉球泡盛文化を広めていく姿に私は心を打たれるのである。泡盛業者は組織として掛田商店に分厚い琉球松坂に「泡盛文化を広める店」という大きな看板を贈呈して、このご夫婦の日夜の奮斗努力に感謝の意を表して欲しい。これが私の真心からの願いである。
2003年9月号掲載