これは識名酒造の玄関の入口右側にかけられていた額に寄せ書きされた沖縄の偉人の1人の古酒を味見した感嘆詞である(写真)。沖縄で最も古い歴史を持つ琉球泡盛造りのひとつ有限会社識名酒造は現社長の識名研二氏(60歳)は4代目である。
敗戦後の一時期は那覇市大道366に在った。現在の首里赤田の戦前の屋敷に新工場を新築し移ってきたのが昭和60年、10月である。創業は大正7年識名盛仁氏、2代目が盛恒氏で明治34年4月7日生まれ(昭和33年1月23日病没・享年57歳)。3代目が識名謙氏(平成19年10月10日没・享年85歳)。4代目が識名研二現社長(60歳)だ。
昭和48年6月1日付小紙4面に“珍品、この酒は、100歳です”と三段見出しで識名酒造のクースが紹介されている。トップリードに「俗に女房とタタミは新しいほどいいといわれているが、コト泡盛に関する限りは古いほど味が深い(古酒と女房は古いほど味が深い・・・記者の造語)と言われている。遠く琉球王朝時代から珍重されてきた琉球泡盛も何百年も の、何十年ものというふうに長年貯蔵されたものがクースとして重宝がられてきたが、去る大戦でそれも全部灰塵に帰した。幸いにもここにただひとつ、一醸造家が去る大戦中首里赤田の実家を離れるときに埋めた南ばんがめ入りの泡盛があの激戦の中を地中深く眠って難を逃れてきたのがある。しゅろ縄を巻かれているというよりは南ばんがめにくい込むようにしがみついていると云った表現が正しい気がする位い朽ち果て、これが100年の歳月を如実に物語っている」(写真)。更に「“静”としてずっしりとした風格はまさに100歳にふさわしく神々しいばかり。静かにゆっくり左右に振る、中でコトコトと100歳の酒が応えてくれた。所有者の識名謙社長(那覇市大道366)の話「首里から北部まで避難して戦争が終わったので帰ってみたら一本は割られていた。多分よく状況を知った人が中身を飲んで割ったのではないだろうか。かめまで割らなくてもよさそうなものを。現在、二斗五升と一斗五升の2本が残っております。あれは確か1950年頃だと思いますが、作家の火野葦平さんが沖縄タイムスの招へいで来沖された時に『幾世紀も沖縄の土壌が育んできた琉球泡盛も今次大戦で全滅か』、とタイムスの紙上で嘆いておられる記事を父盛恒(1958年没)が見て、これほど琉球泡盛を理解し愛し続けている人ならばと感激して当時の高嶺朝光社長を通してこの古酒を少しならと差し上げた。帰郷後その感慨を文芸春秋に掲載してありました。昔は古酒づくりを一説によると、御殿(うどぅん)、たとえば尚家などから基酒(あひゃー)を分けてきてつくったとも伝えられておりますが、古酒(くうす)というものはそのままにしておくと“ダレ”てくるのであまり活気がなく新酒を入れることによって活気がでてくるものです。50年もの、15年もの、7、8年もの2、3年もの、新酒と云う順に置いて古いのから一合汲むと順々に注ぎ足していく訳ですね。荒けずりの酒を永くねかすとよい酒が生まれるといわれております。また、かめは熟成が早く、ガラスびんはおそいですがしかし良い古酒(くうす)ができます」。以上が識名社長(当時)が小紙記者に語った実話であった。この識名酒造の100年クースは東恩納寛淳や伊江男爵等々あまた有名人達が賞味しているが、小紙記者は話だけ“クヮッチー”させてついぞ飲ませてはくれなかった。敗戦後最初にびん詰め販売を始めたのは識名酒造である。小紙の「泡盛戦後50年」・1995年3月28日付け発行に識名酒造(識名謙社長・当時)によると、「私たちがびん詰め販売後間もなく各業者も瓶詰めに切り替え、そして次々にそうなっていきました」と語っている。「先代のアイデアのおかげでよく売れました」とも語っている。
同社の主力商品の“時雨”は「古風味豊かな泡盛」である。去る大戦後も生き抜いてきた同社のクースは今年150年(一斗壺入り)と100年(二斗壺入り)の2本あるが、今から10余年前に筆者は幸運にもこの年代ものを2度賞味したことがある。一度はNHK沖縄放送局の小野ディレクターが筆者を訪ねて来て、識名酒造の年代もののクースを取材しようと何度も交渉したが断られて困っている。仲村さん、ひとつ中に入ってくれないかという。
識名社長に会って、取材するだけならOKをとった。話が進む内に人のいい識名社長はおもむろに100年クース入り壺のフタを開けた。瞬時にして馥郁たる香りが部屋中に広がったのである。更に親指ほどの盃に汲んでハイ!と小野さんへ、そして仲村さんどうですかと渡された。
その香りをかいだ瞬間うなった。そしてゆっくりと喉元へ。その旨さたるや例えようがなかった。しいて表現すると最高級ブランデーの味に似ている。その事は今でもしっかりとおぼえている。これまでの私の人生でクースの奥の深さをしみじみと味わったものである。2度目は照屋比呂子さんと同行した時だ、私は幸運にも此の大戦にも2度も打ち勝って生きて来た沖縄の“宝物”と出会った。全く業界専門記者冥利に尽きる。小野さんは大の沖縄びいき、泡盛をよく味わい理解する男で、後日安里の「うりずん」もテレビ取材をしていた。沖縄を離れ大分局へ転勤されたが、沖縄県泡盛同好会ではうりずんの2階で平田清副会長共々ささやかな送別会をしたものであるが、小柄な奥さんも同伴で一升壺入りのクースをさし上げた。翌日は那覇空港まで行って見送った。さて、識名酒造の研二社長は夫婦仲むつまじいことでも有名だが、高校時代は野球部の選手で担任があの有名な栽監督であったのだ。泡盛「時雨」は居酒屋うりずんでもすこぶる人気のある味わい深い酒だ。5代目盛貴(もりたか)さん(26歳)はただ今工場内で修行中である。クースは時雨に限る。
“古風味豊”が同社の持ち味であり、消費者の声でもある。 沖縄で一番古いクースが識名酒造の一斗壺入り150年、一斗五升壺入りのクースが100年ものである。
エッセイストで女優で美人の池波志乃ちゃんも大の時雨のクース党で安里の泡盛居酒屋うりずんの常連客である。
平成25年12月21日掲載記事