明治時代の泡盛産業 前編<文/いしがきたすく>(昭和47年7月10日)
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[公開・発行日] 1972/07/10
[ 最終更新日 ] 2016/07/27 - 読む
沖縄で酒といったら言うまでもなく“泡盛”のことである。昭和の初期まで泡盛は外来の粉末を原料に“コウジ”をつくり、それに水を混ぜて蒸留したもので、本土の清酒の醸造とは工程が違う。
無色清澄(むしょくせいちょう)、香気芳烈でアルコール含有量は40~50度までにおよび、有名な舶来品ウイスキーと劣らない。しかも価格は格安。
昭和15年、本土への移出は激増の傾向を示し、醸造高3万石(約ニ百数十万円)のうち移出高約1万2~3千石(約百万円)になっていた。特に首里、那覇には古酒(クース)と称し、古くは200~300年のものもあるといわれ、南蛮甕の用器とともに珍重がられた。420~430年前、冊封使・陳倪(チンカン)は、その使録に「王は酒を持ってすすめたが、その酒、清にして烈で、シャムより来るという。これは米奇(ミキ)と比較できぬもので、私たちはただ、これを褒めるのみ」という意味の言葉がある。
このように沖縄の泡盛の歴史はかなり古く、そして本土にも移出され、沖縄の泡盛琉球泡盛といって宣伝されたものである。
本稿では明治34~35年(1901~1902年)頃から対象の初代にかけ、泡盛の生産状況、本土への移出高などを他の物価と比較しながら述べていくが、特に当時の社会的な“できごと”などをはさみながら、この泡盛の話を続けていきたい。
特に、この稿を草するにあたり、注目したいことは、その昔、泡盛は現在の砂糖、パイン産業とも匹敵する基幹産業ともいえるもので、当時の県庁の財源を潤していたことが判明できるだろうし、また泡盛が沖縄だけの産業ではないということを明らかにしていきたい。
工産の筆頭しめる泡盛
明治30年(1897年)沖縄の工業として脚光を浴びたのは、何といっても泡盛産業。当時、織物が年間27万6,644反、漆器は2万5,244箱で合計1万3,428円に対し、泡盛は実に1万7,852石、金額にして14万8,094円だから、今で言う“基幹産業”とはまさに泡盛産業のことをいうのだろう。
当時、本土から来た人たちは、那覇の辻、渡地、仲島の遊郭を訪れた。その本土から来た人たちの見聞記によると、遊郭で働く娼妓(当時、沖縄の新聞はズリ○○匹と称していた)の数は約3,000人、その風釆(ふうさい)は間抜(かんばつ)である(ずばぬけて美しかったと想像される)。
だが、その美しさに似ず、奇妙にも野郎(男たち)を酔わしめる怪力があり、遊客の取扱はいとも丁重であった。内地の人で沖縄へ来る者は、たいてい琉球人は民度が低く、生活困難で貯金などは全くできないのでは?と考えていた人々は数多くあったが、実際にはまったく反対で、生活費は予想よりも多額で、加えて町の人たちの気持ちは寛大かつ応揚であった。
そのため、青少年の堕落しやすい環境をつくり、遂には酒色に溺れ、首も回らず足も抜けないという者が多数いる。このような状態だから、青壮年で沖縄に入ろうとする者はサイフのヒモを緩めないという心がけが必要である。
その頃の琉球新報で語っている。
明治34年(1901年)4月から同35年3月までの泡盛の移出高は8,700石3斗4升3合、同35年4月から9月まで6,963石3斗7升4合である。ちなみに明治32年(1899年)の醸造高1万6,577石1斗4升に対し、移出は6,273石7斗7升、明治33年(1900年)は1万8,148石6斗3升に対し、移出は1万2,063石8斗5升となっている。
明治35年(1902年)は那覇で活動写真が興業された。いまでいう映画のことだ。
当時の新聞によると、
「毎日山の如く群象する見物人をして奇と呼び妙と叫ばしめ、その評判はこれまで幾多の興行物渡来せしも、この如く人気を投ぜしものはあらずと称せらる。その活動する様は真に迫れり、ごうも写真とは思われざるほどなればにや、老人や婦人連の中には、これあるいは魔法によりて人目を欺くにはあらずやとの懸念を抱く者もこれあり。」
と記されている。
文語文や使った文体といい、現代から考えるとまさに“こっけい”の一語につきよう。