多くの泡盛の知識に感謝 ~菅間先生ありがとうございます~

   

菅間誠之助という偉い人物がいた。過去形を使ったのはこの人が黄泉に旅立たれたからである。

2000_6_awamoriyomoyama_sugama_seinosuke出合いは今から29年も前だから沖縄がヤマトに復帰する2年前である。琉球泡盛の技術指導で来沖の時、那覇市の前島にあった南国ホテルに先生を訪ねたのは、瑞穂酒造の先代社長玉那覇有義さん(故人)と一緒だった。肩書きは東大農学部農芸化学化卒業で国税庁譲造試験所の研究室長。つまりお酒造りの指南役であった。

泡盛が今日のようにうまくなったのも菅間さんの技術指導に負うところ大である。以来、菅間先生とは来沖の際には〝酒飲み友達″の間柄になった。

「仲村さん、今安里の居酒屋うりずんに居ます。一献どうですか」とよく電話がかかってきた。

私にとっては技術の情報源でもあるから2つ返事で飛んで行った。先生は春夏秋冬お湯割り党であった。笑っても額に数本の横じわができ、物静かに話されていたのが印象深い。

うりずんでいつか先生にこう言ったことがある。「先生にはひとつだけ欠点があります」と。怪訝な顔をして私を見ていたが「それはどんなに飲んでも酔わないことです」と言ったら微苦笑で済まされた。

事実、私は既に出来上っているのに先生は素面然として泡盛造りの話を続けるのであった。繊細な方でいかにも農学博士の風格を備えていた。それでいて少しも威張らず、こんな若造記者の与太に耳を傾けてくださった。派手な飲み屋を好まず、うす暗いこじんまりとした店を選んだ。

或る晩、2軒目に案内された東町の小さな店に入ると、ママさんに琴を出させて自ら調弦し弾いたのである。私には訳の解らない曲だったがいい調べに陶然としたことをおぼえている。宮古に自分と同じ姓があることを知った時には非常に喜んで誰彼となく誇らしげに語っていた。沖縄のは州鎌(すがま)だがそんなことなどは意に介さない様子であった。

初来沖では22日間もの長期に亘り沖縄本島や各離島を廻り、造りの技術指導に東奔西走していた。そんな超過密スケジュールの先生に私は厚かましくも原稿執筆をお願いしたのである。

しかもそれは沖縄を離れる2、3日前であった。いやな顔ひとつせずに心よくお引き受け下さった。那覇空港までお見送りした時にちゃーんと原稿を渡されたが、感激のあまり声が出なかった。29年前の小紙第15号と第16号に「特別寄稿」『古い酒を新しい器に』のタイトルで掲載されている。その中で先生はこう述べている。

「こうじに蒸米をかけた人吉タイプのものとか、砂糖をかけた奄美タイプのものであったとすれば、本来の泡盛を少しずつブレンドしていき、5、6年後には消費者の嗜好を100%泡盛になれさせることが外来酒を防ぐ唯一の手段となる。25度、20度ものも検討してみる必要がある。これが出るとレモンやコーラを飲んでいるホステス達も泡盛党になる」と。

30年近くも前の先生の泡盛業界に対する警鐘と提言である。恐れ入る先見の明には頭が下がる思いである。公職退官後は執筆にダイナミックに活動するかたわら沖縄県の技術アドバイザーも務めていた。著書には『見なおされる第3の酒』『日本の銘酒事典』『酒とさかな』『焼酎のはなし』など数多くある。

訃報を後日に聞いた私は埼玉の奥様に電話を入れたら、与那国へ業界専門誌記者と一緒に取材に行く予定だったという。とうとうそれが果せず、さぞ残念であったであろう。

2回にわたった出稿以外にも多くの原稿をいただいた。が、その原稿料を未だ支払っていない私は良心の呵責に悩みながら、今晩も居酒屋うりずんの止まり木で菅間誠之助という大先生に想いを馳せながら1人盃を傾けている。この偲び酒がせめてもの先生への供養になるのではなかろうか、と1人でに思い込んでいる情ない貧乏記者である。

この一編を亡き菅間誠之助先生に捧ぐものである。泡盛に関するたくさんの知識を教えていただき感謝申し上げます。ありがとうございました。そして、どうもすいませんでした。

(合掌)

2000年6月号掲載

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