ウイスキーの全盛時代~泡盛は斜陽産業といわれた~

   

awamori_yomoyamabanashi_whisky_awamorisyayousangyou私が新聞を創刊した1969年に68あった泡盛製造工場は、1970年には57場となり、現在は46場一協同組合となっている。

過去29年の間に22場が戦いに敗れ、消え去ったことになる。敗戦で無に帰した琉球泡盛だが、業界の努力によって再び息を吹き返すものの、世はウイスキーの全盛時代とあって、なかなか県民は泡盛に振り向いてはくれなかった。 沖縄が日本に復帰した年、沖縄国税事務所が置かれた。

その年に熊本国税局から赴任したのが西谷尚道主任鑑定官であった。初代である。そして同時に行われたのが泡盛鑑評会で、そこでは酒質の審査、泡盛に関する講演もおこなわれ、現在も続けられている。それ以前まではほとんど手探りで造られていた泡盛だが、この主任鑑定官は着任早々、洗米、蒸し、仕込み、蒸留、製品管理まで日夜技術指導に飛び廻っていた。

泡盛製造業者の努力と西谷さんや歴代主任鑑定官、その道の専門家たちの技術指導によって品質は除々に向上していった。モロミの腐敗やこげ臭も無くなった。 それ以前までは泡盛製造業者の中には、先の展望が見えず転業を真剣に考えた人々もいたくらいである。

品質の向上や県民の意識の改革、それに長期低利の制度資金の活用等によって長期貯蔵施設の整備も始まり、古酒(クース)造りに本腰を入れるようになったのである。一時期泡盛は斜陽産業といわれ、銀行も金を貸さなかった。芽が出始めると業者もジンブンが湧く。容器、ラベルも刷新された。もちろん一番大事な中身も濃い味のクースから淡白で切れ味のよい泡盛と、多種多様な酒質が市場を賑わしている。

29年前までは桜坂や栄町あたりの店にほとんど泡盛は置いてなかった。「泡盛」の看板はなく泡盛を置いてある店を探し当てるのに非常に苦労したものだ。ホステス達も自分の店に置いてないのを誇りにしていたくらいだ。それが今日では逆で、泡盛の看板を揚げていない店を探すのに苦労するぐらいで、売り上げ数量では当時の約4倍である。県内でもそうだが、特に近年県外で大きく伸びつつあるのが嬉しい。

戦前の例を引くまでもなく、産業の乏しいわが沖縄県にとって琉球泡盛は基幹産業のひとつであり、文化であり、我々沖縄民族の誇りである。 泡盛メーカーがその自覚をもって、更なる品質の向上と市場の開拓に努力して行くならば、泡盛は無限のその輪を広げていくであろう。同時に我々130万県民挙げて総セールスマンとなって、この世界に類のないうまい酒を宣伝していきたい。民族の魂のこもった酒は滅びない。

(つづく)

1999年3月号掲載  

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