―備忘録―②-(4)(平成25年8月17日)

  • [公開・発行日] 2013/08/17
    [ 最終更新日 ] 2015/10/05
   

創刊45周年を顧みて・・・

減圧泡盛を最初に発売した

泡盛業界でボトルに「請福」のマークと会社名・住所・電話番号を印刷させたのは請福酒造有限会社だけである。同社の創業者漢那憲副社長は奇抜な人間だった。自動製麹機を設置したのは宮古・八重山地方泡盛業界では初めてである。減圧蒸留機を導入し蒸留した酒を全県下に販売したのもこの人だ。宣伝費やのぼり、看板等他経費は莫大な資金を投じている。

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故 漢那憲副さん

グナータンナファと言われていた憲副さん

八重山・与那国、波照間まで「請福」の銘柄は広く、当時80%のシェアだといわれていて人気はすごかった。工場の近代化や向かい側に原料米倉庫や貯蔵施設なども充実させ、すごい勢いで伸びた。手八丁口八丁のやり手経営者で、その手腕は側で見ていても頼もしい存在の人物だった。その頃の話。瑞穂酒造の玉那覇有義社長(当時)に誘われて石垣島取材に同行したことがあった。その晩宮平観光ホテルの一室で八重山泡盛業者との懇談会で、那覇の現状や石垣島の情報などお互いに述べ合っていたが、一番玉那覇社長に質問を多くしていたのはこの人と現玉那覇有紹県酒造組合会長の母親の吉子さんの2人であった。お開きになって他の業者が帰った後も憲副社長は残り、有義社長と遅くまで意見の交換をしていたのが印象深い。翌日帰りに石垣税務署に立ち寄り大底間税課長と雑談している中で、「八重山では漢那憲副さんのことを“グナータンナファ(小さな玉那覇有義さんのこと”と言っているんですよ仲村さん)と笑いながら話していた。美崎町に2階建てのビル、登野城にも2階建てのアパートなどを購入していて、石垣では押しも押されもせぬ実業家であった。私は年に何回も両先島へは取材に出かけていたが、私が訪れると、帰り際に必ず仲村君、広告も出すんだろう、ハイ、と現金を渡し、領収書も書きなさいであった。ある時請福酒造を訪れると、“仲村君、酒屋は憲仁に任そうと考えている。彼も31歳になって一人前だから大丈夫だ。”と言うのである。

憲仁とは長男のことで、後に社を継ぐのであるが、私は進言した。「まだ早いじゃないですか?それにウンジョー(あなたは)泡盛に生きる人間ですからもっと現役のほうで頑張るべきだ 」と。しかし憲仁は大丈夫だと社長は言っていた。後になって考えてみると、この人はすでに腹では決めいていたのである。

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びんにレッテルを印刷した請福酒造の酒

引き継いだ憲仁社長は立派に会社を経営し、その子憲隆氏がまたその後をバトンタッチして現在に至っているのである。腹で決めているとはこうである。

石垣農協(当時はそう呼んでいた)。県内の仲に在ったが、憲副社長は其處に請われて行くと私に言うのである。私は「其處は膨大な赤字だというじゃないですか。何を好き好んで其處に行くんですか。しかも無報酬だそうですね」。と私が言ったら「仲村君、将来うちの子や孫たちが、『うちのじいちゃんは偉かったんだぞ、石垣農協の赤字を無くすために月給はいらないから、と言ったそうだ』と自慢してくれればそれでいいんだよ」。私は絶句した。農協の総会か役員会かの席上で机テーブルに俯せて眠るような表情でおだやかにこの世を去ったという。憲副社長とは飲み食いは石垣島や沖縄本島でも度々あった。

ズボン間違えて2人大笑い

“泡盛の元祖探求の旅”ではタイへも同行した。その帰りの香港のホテルで“仲村君!”とノックするのでドアを開けると憲副さんがつっ立って居るので、どうしたんですかと聞いたら手に持っているズボンを指して、「これ、君のズボンと間違えているのではないか」というのであった。タイでひと晩で背広の上下を日本円で4万円で作る、と聞き(当時は那覇では8、9萬円だった)憲副さんと全く同じ柄でなけなしのカネをはたいて作らせたのであった。しかもタイシルクのネクタイ付きである。私と憲副社長とは背丈は全く同じであった。ホテルで作りたての背広を着けて見て、少しズボンが長すぎると言うので私も掛けたズボンをはいて見ると全く同じである。2人して大笑いしたのも昨日おとといのようである。
1985年、享年59歳であった。ばがすまぬ先輩のご冥福を祈るや切である。

此の人とも人生のエピソードは未だまだである。

平成25年8月17日掲載記事

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