安波部落の青年遣は強い~中南部旅行へも“まさひろ”~

   

【2005年10月号の続き】

私も琉球古典を少しは出来るので、那覇から水牛の角で作ったバチを持参して来ていたので、awamori_yomoyama_81_masahiro-syuzou-story_oden-toudaiカメラバッグからそれを取り出して2~3曲弾きながら彼等の面白おかしい話につられてグイグイ。

そのうちカチャーシーモーイで、お隣近所かまわずの乱舞であった。とにかくいい取材ができ、放心状態であったのであろう。青年たちは各々持参してきた1升びんを平らげてもケロッとしていたが、小生は最早や前後不覚の寸前であった。

4合びん1本飲み干したかどうかで、この体たらくであった。部落の屈強な2人の青年に両肩を担がれて、いや背丈の小さな休を丸ごと引っかつがれて民宿まで届けられた。部落に1軒しかない民宿で朝目が覚めて、飯時にママさんはゲラゲラ笑いながら言い放ったものである。

「安波の青年たちは酒に強いんですよ。ここの青年たちにはとても勝てないって」。ゆうべも1人で1升びんをそれぞれ平らげて帰った、というからこの部落に長居はできぬ、と早々と辺土名からバスで那覇ヘ帰った。

今、34年前の小紙(醸界飲料新聞)第16号を前に青年たちの顔写真を眺めていると、なつかしさで胸がいっぱいだ。

昔、与那原の港からマーラン船(別名山原船)に揺られて遠く国頭、東、大宜味の各村々を廻り泡盛“まさひろ”は卸されていたという。この青年たちの先祖が山仕事や畑仕事に1日のウタイノーシー(疲れ直し)に日暮れ時になると、タめし前に5勺や1合の泡盛“まさひろ”を飲み、疲れをいやしたであろう。

しかしその末裔たちは、今日1人で1升びんである。文字通り隔世の感だ。体もふところも豊かになった証であろうか。かく言う業界紙記者は昔から今も身心共に貧弱であるが、安波部落から帰って3日と経たない内に“まさひろ”探訪で紅燈の巷に消えたのであった。

先ずは東町にある沖縄一うまいヒージャー汁を食べたが、それも“まさひろ”を飲むためにであった。次は辻町の有名なおでん「古都」であった。そして栄町にある「東大」であった。

東大と言っても日本の最高学府のそれではない。世界で一番おいしいおでんの店である。あの当時の店々は最早や廃業しているが、「東大」は元気である。ここの“初代総長”のおばぁの頃はよく通ったものである。

夏などはうす暗いカウンターに扇風機がうなっていて、そこでおでんのふくろやてぃびちやらこんにゃくなんかを注文し、アチサフーフーしながら飲み食いした。額から垂れ落ちる汗もまたおでんの中に泌み込み味を引き立てた。

今では店も立派になって“3代目総長”が継いでいるという話を聞いている。おばぁはお元気であろうか。なつかしく思い出されてくる。

当時はこの店たちも泡盛“まさひろ”に人気があった。これらの写真も第16号に掲載されていて感慨ひとしおだ。戦前の税務署長だった方の話によると、合資会社比嘉酒造(現まさひろ酒造株式会社)の創業は古く“フォーチューヒジャ”と呼ばれていたそうだ。つまり琉球王府の料理人が創業したことになる。

現在の昌晋社長が4四代目の後継ぎということになる。フォーチューヒジャとは包丁比嘉の意味である。

安波の青年が言っているように泡盛“まさひろ”は文字通り郷愁の酒でもある。昔遠く与那原から運ばれてきて、薪などと交易されてきた“まさひろ”、今はどうなっているのか。

記者は昨年8月30日、安波の共同売直に電話を入れてみた。声の透き徹る若い女性が応えてくれた。今ではトラックで運んでくれるそうだが、泡盛はやっぱり“まさひろ”オンリーだそうだ。今でも辺土名や中部、那覇へも旅行にも持参で行くという、これもまた昔そのままの姿である。

だが、残念なことに昔の藁ぶきだった屋根は無くなり、今では瓦屋、ブロック家屋に変わったという。これもまた其處(そこ)に住む人の身でなければ解らない自然の成りゆきである。

ともあれ安波部落よ永遠に静かで心豊かな佇(ただずま)いを!そして、いにしえを今に伝える泡盛“まさひろ”でウタイノーシーを!

2005年11月号掲載

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