今では10人がオリオン ~34年間に24場が煙突倒す~

   

小紙醸界飲料新聞が創刊されたのは沖縄がヤマトに復帰する3年前であった。yomoyama_44_70-breweries_24-go-under_during-34-year題字は「譲界ニュース」で、1970年7月30日付の第8号から現在のタイトルに変わっている。創刊時の琉球泡盛製造業者は70場あった。

新式焼酎業者が5場、ワイン業者1場、島産精涼飲料業者7場、外国産3社、味噌醤油業者あまたといったところであった。現在、泡盛製造業者は46場1協同組合となっていてこの34年間に実に24場が煙突を倒し廃業したことになる。感慨深いものがある。

当時のバックナンバーをめくると、八重山の塩谷酒造所の「金波」、石垣酒造所の「瑞泉」や、宮古の池村酒造所の「明星」、渡久山酒造場の「朝日」、野村酒造場の「琉香」、宮泉酒造場の「幸姫」、石嶺酒造場の「金の泉」の胴張りラベルの広告が載っている。

他にも宮古では糸数酒造場や「瑞泉」のラベルのメーカー等もあった。沖縄本島では国頭村字宜名真の宜名間酒造所の「黄金の露」、同浜部落にあった与儀酒造所の「ヨ泡盛」、大宜味村字根路銘の大城酒造所の「梅酒」、本部町字東の石川酒造所の「琉華・石川正宗」、名護酒造所の「轟」(これはヘリオス酒造から復活)、同じく名護の宮里酒造所の「丸盛」、中部の勝連半島にあった酒造所(ここだけは銘柄がどうしても思い出せない)も印象深い蔵だ。

自家用車1台もない貧乏新聞記者はバスを乗り継いでその工場に辿り着いた時はちょうどひるめし時間だった。真夏で、従業員たちは皆上半身はだかで木陰で食事中だった。

ひと通り蔵を廻り終えて帰ろうとすると、そこの奥さんらしい女性がどうぞ一緒に食べて下さいと差し出したのはウムニーとおつゆだった。あの時のウムニーの味は今でも忘れない思い出となっている。ウチナーンチュの人情である。

南部は糸満に崎山酒造所と玉福酒造所の「玉福」があった。南風原にも1場あったが酒造所名が思い出せない。

輸入ウイスキーと新式焼酎の全盛時代で、わが泡盛は文字通り片隅に追いやられていた。

こんな実話がある。オリオンビールが出来たての頃、若狭の中央販売店には新式焼酎の白鷺を買いに来る客が増え続け、オリオンビールはさっぱり売れない。そこでこの社長は、

「オリオンビールを買うなら白鷺を売りましょう」

と客に持ちかけた。事実オリオンは発売当初の約3年間は苦労した筈である。この流通の一計は当たったそうだ。

確かにあの時代の琉球泡盛は不味かった。あの時代に青春を過ごした泡盛党はだからその臭い消しに5セントの〝島産品の″コーラやベストソーダを割って飲み酔ったのであった。コカコーラが10セントだった。その中でもベストソーダのクリーム色は格別うまかった。

あれから34年も経った。今では10人中10人がオリオンビール。水割りオンザロックの泡盛の時代となっている。

が、いつの時代でも〝頑固一徹人間″は居るものである。「ゆんたく会」なる私と同世代の同郷人グループがある。

毎月第3水曜日の晩桜坂の「モアイ」という泡盛居酒屋で僅かの金額の親睦モアイをしながらゆんたくひんたくしているのであるが、その中で2人だけは今でも頑として昔ながらの「コーラ割り」で泡盛を飲んでいる。

この2人、酔うほどにガーパイで通っている。やはりグヮンクーはグヮンクーとしての飲み方は変えられないのであろう。

2002年8月号掲載

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