醸界風土記⑤ レッテル(昭和45年1月1日)

  • [公開・発行日] 1970/01/01
    [ 最終更新日 ] 2015/11/23
   

印刷出版物の需要増大は、その地域社会の文明文化の発達度を知るバロメーターともいわれている。1970_1_1_brewing-world-climate-record_awamori-label_koubundou-printing新聞、書籍、商品レッテル、伝票書類などは、ほんの一例に過ぎず、その範囲は計り知れないものがあり、現代社会生活を支えている。

ここに紹介する「光文堂印刷所」も、その印刷文化の一翼を担って前進を続ける会社である。いかなる商品でも、外装されなければ、その価値はゼロに等しく、レッテル、または商標、包装などによって外装されてこそ商品としての価値づけがなされてくる。

光文堂印刷所はその商品の「顔」となるレッテルなどを中心とした美術印刷では、沖縄のトップレベルを行く会社で、とくに煙草三社のレッtルと醸造界の約85%のレッテルは「光文堂」で印刷され、その印刷技術は、他社の追随を全くゆるさない。

こころみに同社と取引している醸造界各社を列記してみると次のとおり38社にもおよんでいる。「ローマは一日にした成らず」という言葉があるように、光文堂印刷所の歩んできた道も決して順風満帆ではなかった。

幾多の苦難の中から、外間政憲社長を中心に社員が経営技術面に探究努力を重ねて、今日の光文堂を守り育て来たのである。同社の歴史は古く、あの戦後の混乱期から住民が立ち上りはじめた1950年9月、那覇市の海南で初声をあげた。

従業員は僅かに数人、設備も貧弱で、まったくの家内仕事でスタートしたのである。1953年になって社屋を牧志町に移転させ、設備も拡張したものの、技術面の貧弱さと材料の紙、インクなどの入手難で経営は思うようにならなかった。

ところが、社屋の牧志への移転後まもなく、生産企業が次々とおこり、光文堂の受注も増大しはじめた。同社はこの時期を敏感にとらえ、沖縄では不可能といわれたカラー印刷を計画し、日本本土の朝日新聞に求人広告で技術者をもとめ、奈良県大和高田市出身の南龍雄氏を迎えた。

さらに1955年には現工場長の松本氏を日本本土から迎え入れ、それと同時にオフセット印刷機菊全判二台を増設、着々とカラー印刷への体制を整えた。今日の光文堂の基礎は実にこの時期に固めたのである。

同社はその後も続々と設備を固め、1960年にオフセット印刷機、自動油圧式倍判研磨機、校正刷機を設置、1962年オフセット印刷機一台、1965年ハイデル印刷機一台、写真植字機一台、というように増大する受注に対応していった。

この時期から光文堂印刷所は、業界をリードする会社にまで発展、1966年には待望の新社屋を那覇市上之屋に完成させた。この社屋は地上3階、総坪数360坪をこえる。それと同時に新設備を断行し、ポーラー断裁機、金属低床式精密製判カメラ一式を施設、さらに浜田式正菊全判チェーン式印刷機、長谷川給紙機、写真植字機二台、コバステップ植版機、などを増設していった。

これを一連の設備拡張で特筆されるのは、1969年9月、沖縄で最初の高速多色印刷機を施設したことである。これによって光文堂の業界での地位は不動のものとなった。このような光文堂印刷の躍進は、外間政憲社長の時期を敏感にとらえ、ここぞと思ったら、直ちに実施に移す決断力と経営センスが大きな原動力となっている。

このことは内外から高く評価されている。そこで外間社長の横顔を述べてみたい。同氏は本部町字大嘉陽で農業を営む政昇氏の五男として生れ、名護高校の五期卒であるが、光文堂印刷所を創立したとき実に若冠19才であったというから、いかに同氏が事業に対して非凡の持主であったかわかる。

氏にこんなエピソードがある。高校卒業祝いに同郷のある有力者の家によばれた。同家の息子が外間氏の同級生だったのである。その有力者は息子と外間氏に将来の希望を問うたところ、息子は大学進学と答えたが、外間氏は即座に「自分はなにか事業をやってみたい・・・」と答え、有力者を感心させたという。

その当時、すでに外間少年の胸中には実業家の夢が育っていたのである。牧志町での苦難の中で、ひとたび機会をつかむと、続々と設備投資を断行する決断力は、少年のときから、実業家になろうという信念から生れたものといえる。

氏はこのように自分の信念に強い関係で、一見して気むつかしく感じるが、38才という若さから社員誰の意見も聞き、真理をとおして話せば一従業員の意見でもとり入れるという寛容さを決して失ってはいない。

とくに印刷技術面探究心では業界随一で、印刷事業協同組合理事長の要職にあるということが、それを実証している。氏は徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という教訓を座右の銘として、絶えず将来に目を向け、業界のリードマンとしての使命に心がけている。

1970年代の生産企業の転機にあって氏は「企業生産の合理化をはかり、大量生産によってコスト低減と品質の向上をはかり、特に日本本土復帰対処策として、協同事業を推進し、印刷工業団地化に努力していきたい」と遠大な夢と構想をもっている。人物難といわれている沖縄実業界のなかにあって同氏のこんごの手腕に大きな期待がよせられている。

光文堂印刷所で生産されている酒業界のレッテル(昭和45年1月1日現在)

山川酒造・石川酒造・名護酒造・恩納酒造・泰石酒造・諸見里酒造・三光酒造
オリエンタル醸造・琉球洋酒・瑞泉酒造・咲元酒造・石川酒造・識名酒造・大平酒造
新里酒造・オリオンビール・泡盛産業・神村酒造・米島酒造・久米仙酒造・菊地洋酒店
ニッカウィスキー・ゴールデンウィスキー・菊之露酒造・古謝酒造・糸数酒造・野村酒造
渡久山酒造・宮泉酒造・池間酒造・漢那酒造・石垣酒造・塩谷酒造・池原酒造・玉那覇酒造

<その他のレッテル>
赤マルソウ・クロマルソウ・オリエンタル煙草株式会社
琉球煙草株式会社・沖縄煙草産業株式会社

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